Mind Palaceがない代わりに

来年には大学生じゃなくなるのでタイトル改めました。

脚が長い話は封印して考えたことたち『SLAPSTICKS』2/14 S 感想?考察?

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クリエデビューから1ヶ月経たずに2回目~!

やっぱり見やすくていい劇場ですね

色々考察を加えてみたはいいが、いかんせんうろ覚えの箇所が多くて思いっきり間違ってるかもです~悪しからず!

気を抜くと達成氏と小西氏のビジュアルが良すぎる話に走るので気を抜かないように頑張ります。

脚が長すぎて面白いことになっているシーンがあった笑 あとで図解を足す

傷ついている人を見ることは「笑える」

セネットさんの撮影所にいる俳優たちの役名を覚えていなくて困った。名前覚えるの苦手なので。。なるべく他の情報で補います。

「笑い」に関する印象的なシーンが3つありまして

① 撮影所の男優がアーバックルさんの紹介でやってきた若い女優にアプローチするけれどあっさり交わされる。傷ついている彼を横目に、その若い女優本人とベテランの女優が爆笑する。

② 首を頻繁に折る女優はスタジオをやめて田舎に帰るが首を吊って死ぬ。「笑ってよ」とビリーに畳みかける。

③ アリスが結婚したことを知った若ビリーを眺める中年ビリー「あんまり笑わないでください!当時の自分にとっては深刻な問題だったんです!」

この3つのシーンとそれからスクリーンに流れる映像を見ていて、身体的または精神的に傷ついた人間の上に成り立つ「笑い」が多く扱われているな~と感じました。

観客は彼らが高いところから落下したり車に引きずられたりするところを見て笑う。その制作過程では、アーバックルさんやスタジオの喜劇俳優たちが自分たちの身体あるいは命までも危険にさらしながら映画を撮っている。誰かの身体の危険や損壊の上に成り立つ「笑い」がある。そして、誰かの心が傷ついていることの上に成り立つ「笑い」もある。これは①や③で見られたもの。

この作品はコメディ映画を扱ったうえで、「笑い」がはらんでいる残虐さも伝えたいのかなと私は感じ取りました。

余談だけれど、③のシーンを見ている時に、芳雄さんのラジオで土居さんが、最近失敗ばかりで落ち込むというお便りに対して「後になってみれば笑い話になる」とおっしゃっていたのが思い出されました。そう考えるとショックな出来事が時間が経つことで温かい笑いに変わり、救われるということもありますよね、と思ったり。

ヴァージニアの死を取り巻く物語について考えたこと(男女別の視点から)

これについてもまずは考えるきっかけになった要素を並べます。

①ヴァージニアは舞台上を彷徨っている

②本編ラストのヴァージニアの表情 (これが厄介!この感情!って明確にわからなかった)

③アーバックルは容疑を否認「映画が作れなくなるようなことをするわけがない」

④主人公であるビリーはアーバックルを信じる

⑤世間はアーバックルを信じない

⑥アリスはアーバックルに不利な証言をする

⑦アリスは証言台に立たなかった

⑧昔は映画が面白くてピアノが弾けなくなるようなよく笑う人だったが、今では全く笑わずに伴奏をする

⑨ビリーの必死の説得でアーバックル出演作品が再上映されることになる

この作品のあらすじをとてつもなく大雑把に書くならば、主人公に据えられたビリーがアーバックルの言葉を信じ、彼の作品が忘れ去られないように尽力する。そしてついに再上映にこぎつく。となる、多分。しかしそれはこの作品を「男性キャラの視点」で考えたときにはそうなるというものであって、ここに「女性キャラの視点」が入ることで先ほど書いたあらすじへの不信感、主人公たるビリーへの不信感が生まれてくるなと考えました。

ビリーやアーバックルの視点を重んじて考えた場合(③④⑤⑧⑨)

作り手たちがサイレント映画にかけた情熱とそれを懐かしむ心を受け取ることが出来ます。映画を心から愛したアーバックルはヴァージニアに対して暴行を加えるわけもなく、彼女の死はなんらかの事故だったのかもしれません。それでも世間は彼を許さず、新しい映画を作るどころか、過去の作品さえ上演されることはなくなってしまった。ヴァージニアが舞台上を彷徨っていたのは、彼女もまた映画を愛する者の1人として、誤った情報が広まり、アーバックルを葬り去り、そしてサイレント映画の終焉をも後押ししたかもしれないということに傷つき、事実を知ってほしいと思ったからかもしれない。だとすれば、最後のヴァージニアの表情は安堵と受け取っていいかもしれない。笑わなくなったアリスは、サイレントコメディ映画に冷めていく世間を映すようで、しかし、ビリーと会ったことで昔を思い出し、そしてアーバックルを信じるビリーを信じ、アーバックルに不利な証言をするのをやめたと考えることが出来る。

アリスやヴァージニアを中心に考えた場合 (①②⑥⑧)

ヴァージニアの最後の表情について、先ほどは「安堵」ととらえた場合を考えましたが、実際に見ていた時「嘆き」や「怒り」にも見えたんですよね。戯曲を読めば正解はわかるのかもしれないけれど独自解釈でいきます。彼女の表情を嘆きや怒りとして受け取るならば、彼女はアーバックルに殺され、それゆえのやりきれなさやなにか伝えたいことがあって舞台上を彷徨っていたのかもしれません。そして、アリスはなぜ笑わなくなったのでしょうか。コメディ映画を見ても笑えなくなった理由があるのかもしれません。アリスの証言は映画に関わる中でああいった暴行が頻繁に起こっていることを知っていたことによるものかもしれない。良く起こることだから今回もそうだと思ったのかもしれない。そう感じました。ではなぜ証言台に立たなかったのかというのが引っ掛かりとして残ることには残りますね。

ただ私は観劇中はこっちを想定していたので、再上映にこぎついたことに対して結構複雑な気持ちになりました。

 

脱線するけれど、この話題に関連して、作品と役者は切り離して考えるべきだという風潮についても考えさせられました。

近年、犯罪を起こした俳優や疑惑のある俳優が出ている作品でも、「作品と役者は切り離して考えて」彼らの出演作をタブーにしなくても(テレビで放映できないとかDVDを全回収して差し替えるとかしなくても)いいのではないかという風潮が高まっている気がします。作品は作品という考えですよね。それはよくわかります。自分が好きな作品だったならだれが出ていようと私も見ると思います。ただ、実際にアンセルくんが主演のWSSを見たときに、自分が思っているよりもかなりアンセルくんの疑惑という雑音によって作品にのめりこめないというのも感じました。アーバックルさんの疑惑の真偽はわからないけれど、疑惑のあった彼の出演作を見て笑うことは私にはできないだろうなと思いました。

 

なんだかレポートみたいになっちゃったし、後から気付いてちょこちょこ直すかもしれませんが、一応考えたことは書き直せたかなと思います。

達成氏は「ハッピーバレンタインでした!」と言いながら帽子をぶんっ!と振って帰っていきました。じわりてぃ高かった笑